アジア共生、挑んだ「闘い」 若宮啓文・朝日新聞元主筆死去

 日中韓3カ国のシンポジウムに出席するため滞在中の北京で死去していたことが28日わかった若宮啓文(よしぶみ)・朝日新聞主筆(68)は、過去四半世紀、日本の言論を牽引(けんいん)してきた論客の一人だった。

 特に、小泉内閣から第1次安倍内閣の時期を含む5年7カ月の論説主幹時代(2002年9月~08年3月)は、本人が回想録「闘う社説」で振り返ったように、「闘い」の名にふさわしい論陣を張った。

 小泉首相靖国参拝には、歴史をめぐって東アジアに悪循環を助長しているとして批判。米主導のイラク戦争には正当性のない「予防戦争」だと異議を唱え、自衛隊派遣にも反対した。ナショナリズムが高まり、言論界が日米同盟強化に大きく振れていた。今に通じる時代状況だが、あのとき言論の多様性を重視し、東アジア共生の道を模索しようとした若宮さんの役割は大きかった。

 その「闘い」は決して硬直した言論戦ではない。

 立場の異なる論客と対話し、新たな視点で「解」を模索した。政治部長時代、改憲論の中曽根、護憲論の宮沢両元首相の対談を実現させ、保守内部で様々なニュアンスに富む憲法論があることを浮かび上がらせた。

 憲法論では対極にある渡辺恒雄・読売新聞主筆と、首相の靖国参拝反対で共同歩調をとったこともある。

 若宮さんは、憲法9条の堅持を唱えながらも、新たな法制で自衛隊を法的に位置づける必要性も認めた。安全保障における日米同盟の意義を評価する点では、自民党ハト派の論調に近かった。

 「やわらか頭でとんがろう」が口癖だった。思考は常に柔軟に、しかし、もの申すときは、ひるまずに正面から挑んだ。

 その果敢なスタイルが、論争や反発を生んだこともある。例えば、日韓ワールドカップ共催論を打ち出したとき、日韓が領土問題でぶつかる竹島について、「夢想」と断った上で韓国への譲渡という案を論じたとき、がそうだった。

 若宮さんは、ジャーナリストとして二つの優れた資質を持ってきた。ひとつは鋭敏な人権感覚だ。長野支局時代に被差別部落問題に出会った。結婚、就職など生活のあらゆる面に根を張る差別に苦しむ人々の姿は、20代の若宮さんの心を揺さぶった。地域面に9カ月間160回のルポを連載した。生涯を貫く原点だ。

 もうひとつは、テーマを掘り続ける根気だ。80年代初頭、軍事政権下のソウルに語学留学した。植民地支配に対する恨みや反日感情に戸惑いながらも、領土や歴史が絡み合うナショナリズムを超える道を考えた。なぜ日本の保守は、過去と向き合うことがむつかしいのか。関心は中国を含むアジアへと広がっていく。

 主筆引退後、さらにこのテーマに没頭する。再度の留学で韓国語を学び直し、保守のアジア観に関する著書を改訂した。だが東アジアの和解は一向に進まず、対立はやまない。若宮さんの「闘い」は続いていた。その途上の悲報だった。

 (編集委員・三浦俊章)

 

 ■親友として敬愛していた

 渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長・主筆の話 突然のことで驚いた。シンポジウム出席のために訪れた北京のホテルで亡くなったとは、言論人としての壮絶な戦死だ。

 シャープで、雄弁で、筆が立った。親友として敬愛していた。突然の死に、がっかりしている。

 我々はともに政治記者を経験し、主筆という同じポストにいた。彼は私より22歳若いが、年の差を感じたことはない。よく論争もしたが、それもいいことだと認めあっていた。

 安全保障では立場が違ったが、お互い本質はリベラリスト。論争では半分一致し、半分一致しないぐらいだった。私はA級戦犯をありがたくまつる靖国神社への首相参拝には反対だ。その点、彼と同じだった。

 もう少し長生きしてほしかった。というのも、直接聞きたかった話があるからだ。彼はロシアのプーチン首相との記者会見(2012年)で、北方領土問題で「引き分け」との発言を引き出した。そのいきさつを聞ければ、これから安倍晋三首相とプーチン大統領がどういう会話をすればいいのかという教訓にできた。日韓関係についても、もっと話を聞ければよかった。

 

 ■現実に根ざしたリベラル

 ジェラルド・カーティスコロンビア大名誉教授の話 あまりにも突然で信じられない。日韓、日中の関係改善のため、東京、ソウル、北京を走り回り、必死に努力していた。

 20年来の大切な友人だ。彼は筋が通っていた。考え方に一貫性があって、ぶれない。客観的にモノを見ていたから、意見が合わなくても話ができる。

 良いところは認め、悪いところは批判した。まじめな人だったと思う。

 米国からはわかりにくい日本の保守のアジア観についても、単純な右翼の見方と切り捨てず、その矛盾した、複雑な実像を正確にとらえようとしていた。

 現実に根ざしたリベラルだったのだろう。憲法改正には反対だったが、自衛隊の存在を決して否定しなかったし、国連の活動に参加するのは当然だと。ただ、それは憲法の枠内でできるという考えだった。

 

 ■日韓の懸け橋として活躍

 河野洋平・元衆院議長の話 自分の主張を誠実に伝え、はぐらかしたり、変に妥協したりしなかった。

 特に日韓関係についてはそうで、日韓の懸け橋として活躍された人が亡くなるのは両国のためにも本当に残念だ。中国からも非常に信頼されていた。

 私はサッカーの2002年日韓ワールドカップを決めるころに外相だったが、若宮さんから色々とヒントをもらった。最後まで(主催国を)争っていた中で、一緒に主催したらいいという話をした。若宮さんとは双方の父親の代から2代にわたる非常に古い付き合いで、昵懇(じっこん)の仲だったから。リベラルな立場を貫く姿勢に、いつも共感し、色々と啓発された。心の友を失った気持ちだ。信じられない。

 日本の政治状況がこれまでと違った方向に行きそうだと心配して、評論活動を進められていた。もっと活躍してもらわないといけない人だった。▼国際面=中韓からも哀悼

 

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 鄭求宗(チョングジョン)・韓国東西大学客員教授(韓日文化交流会議委員長)の話 若宮啓文氏の急逝は、韓国社会に大きな衝撃を与えた。日韓関係を大切にした日本の知識人の逝去は信じられないし、今も信じたくない。

 若宮氏はコラムや論評を通じ、いつも円満な日韓関係のために尽力してきた。2002年のサッカー・ワールドカップ日韓共催を提案した朝日新聞の社説は、その実現に大きく寄与した。05年3月のコラム「風考計」で独島(竹島)について「いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する」と書いたことも少なくないインパクトを与えた。

 若宮氏は、日本の政府や政治家だけを厳しく批判していたわけではない。韓国有力紙の東亜日報に連載したコラム「東京小考」では、韓国の朴裕河(パクユハ)・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判を取り上げ、(起訴を批判して)韓国に対して言論の自由と著者の立場に理解を求めた。

 私は若宮氏が1981年に語学研修でソウルに来て以来、兄弟のような友情で結ばれてきた。若宮氏は勇気と所信に徹した言論人として愛されただけでなく、日韓関係の長い歴史の中でいかに生きていくべきかを教えてくれた。

 若宮氏は韓国の文化をも愛し、歌手・趙容弼(チョヨンピル)氏の歌「恨(ハン)500年」を覚えて、しばしば愛唱した。正確な発音による熱唱は、韓国の友人を感動させた。

 今のような長寿の時代に若宮氏は早世したが、残した足跡は大きい。日韓の新しい未来は、彼が抱いた夢を見るように前に進んでいくと信じる。私たちは、そのために努力していくべきではないかと思う。

 若宮兄。安らかにおやすみなさい…。

2016年4月30日 朝日新聞朝刊