寺島しのぶの乱〈父・尾上菊五郎、母・富司純子が激白60分〉 「娘は女優休業も覚悟の上」。弟・菊之助に対抗し、フランス人夫との息子〈3歳〉を悲願の歌舞伎役者に──

歌舞伎界きっての名家に「お家騒動」疑惑が浮上している。しかも騒動の中心にいると目されているのは、フランス人夫との間に一粒種をもうけている、あの大女優。息子を歌舞伎役者に! 彼女を突き動かすのは、晴れることのない恨みなのか。そのとき両親は――。

「しのぶは『長男を歌舞伎役者にさせたい』と言っていますし、彼女の周囲もそれを勧めているようです。
 私は女房を介して、そのことを聞いていました。女房にすりゃあ、娘も息子も同じ子供。今、倅の息子だけが“初お目見得”とスポットライトを浴びてね。女房から『しのぶが可哀想じゃない』と言われ、(四月五日の取材会では)リップサービスで『うちにはもう一人孫がいるんですよ』と言ってしまった。
 でも、しのぶの長男が(尾上)梅幸(ばいこう)を襲名するといったって、三十歳過ぎ。その頃には私は生きていませんよ。発言権は倅に移るわけですからね、倅が『駄目だ』と言ったら駄目でしょう」
 四月二十四日昼。東京・渋谷区にある邸宅に小誌記者を迎え入れた七代目尾上菊五郎(73)は、柔和な表情で、煙草を燻らせながら饒舌に語った。
 二月末に大量吐血で倒れ、三月公演を胃潰瘍のため休んだ菊五郎の体調については、不安視する声もある。
 そんな最中、菊五郎が発した一言をきっかけに、尾上家には今、「お家騒動」疑惑が持ち上がっている。
 四月五日、東京・歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」に先立ち行われた取材会で、菊五郎はこう言い放った。
「(娘が)どうしても(長男を)歌舞伎役者にしたいって言うのでね。ならせるなら、ゆくゆくは(尾上)梅幸を継がせるかね」

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 五月二日の「團菊祭五月大歌舞伎」初日には、菊五郎の長男である五代目尾上菊之助(38)の長男、つまり直系の孫である和史(かずふみ)くん(2)の“初お目見得”が控えていた。そのタイミングで、あえて“もう一人の跡継ぎ”に触れる発言は、物議を醸した。
 歌舞伎記者が声を潜める。
菊五郎の妻は、女優の富司純子(すみこ・70)。二人の間に生まれたのが、女優の寺島しのぶ(43)と菊之助です。寺島は天性の演技力に恵まれましたが、女に生まれたため、歌舞伎役者にはなれなかった。己の運命を恨み、疎外感を持ちながら育ったといいます。交際していた別の名門の歌舞伎役者との恋にも破れ、梨園の妻になることもできなかった。
 その後、女優として大成したわけですが、今もなお、歌舞伎へのこだわりを捨てていないようなのです。フランス人アートディレクターの夫、ローラン・グナシアさん(48)との間に生まれた長男・眞秀(まほろ)くん(3)を歌舞伎役者にしたがっている。結婚会見で『男の子ができたら歌舞伎役者にしたい』とは言っていましたが、まさか本気だったとは。一族とはいえ、外に嫁いだ娘の子ですし、ハーフでもありますから」
 歌舞伎の歴史を紐解けば、ハーフの歌舞伎役者がいなかったわけではない。明治から昭和初期にかけて、類まれなる美貌で人気を集めた十五代目市村羽左衛門(享年70)の父は、明治新政府の外交顧問として来日したフランス生まれのアメリカ人だったという。
 だが、だからと言って、寺島の長男がすんなり「尾上梅幸」を襲名できるほど、甘い世界ではない。
 二代目市川猿之助の甥で、自らも歌舞伎の舞台を踏んだことがある歌舞伎評論家の喜熨斗勝(きのしまさる)氏は、菊五郎の発言に驚きを隠さない。
梅幸は俳名といって、もともとは菊五郎が日常的に使う“別名”でしたが、現在では菊五郎と同格の大名跡です。菊之助さんに『菊五郎』を襲名させた時、菊五郎さんご自身が『梅幸』になる可能性があると、私は思っていました」
 前出の歌舞伎記者が続ける。
菊之助の妻は、二代目中村吉右衛門(71)の四女・瓔子(ようこ)さん(33)です。現在のところ和史くんの下には妹さんしかいませんが、今後、さらに男子を授かる可能性もあるのです。
 中村勘三郎市川團十郎とスターを続けざまに失った昨今の歌舞伎界において、菊五郎吉右衛門という人間国宝でもある二大巨頭が、孫の和史くんのためにタッグを組み、パッと明かりが点っているのは有り難いこと。なんとかこの状態を保ちたいのですが……」
 しかし、瓔子さんより先に寺島が長男を授かって以降、『女性セブン』(一四年二月二十日号)が「寺島しのぶに焦る弟嫁!」と報じるなど、寺島と瓔子さんが冷戦状態にあるという声は根強い。寺島に対する周囲の違和感を、菊五郎はどうとらえているのだろうか。

ヌードで切り開いた女優人生

「歌舞伎役者の家に女の子として生まれたしのぶには、大変寂しい思いをさせましたよ」
 そう言って菊五郎は目を細めた。
 菊之助が初舞台を踏んだのは六歳の時である。当時、寺島は十一歳。その頃から家の空気は一変し、すべては“総領”である菊之助を中心に回り始めた。
 歌舞伎関係者が当時を振り返る。
「彼女の反抗期は大変でしたよ。高校三年の頃、突然海外に逃避行してしまい、『今パリにいるんだけど』と家に電話を入れ、両親の度肝を抜いたこともあった。
 転機は青山学院大学一年の頃。きっかけは昭和の大女優・太地喜和子さんの一言でした。彼女が自宅に遊びに来た時、初対面のしのぶに対して『あなた、寂しそうね。女優やったらいいじゃない』と言って。真を突いた言葉に涙を流したしのぶは、舞台女優を夢見て、文学座の門を叩いた」
 菊五郎は当時、葛藤を抱えた寺島から将来の相談を受けたことはなかったのか。
「全然ないですねぇ」
 部屋の隅の椅子には、いつの間にか妻である富司純子の姿があった。菊五郎が「ないよねぇ?」と水を向けると、富司は凜とした姿勢で口を開いた。
「いや、あなたにはなかった。『女優をしたい』と言い始めた時、私は『菊五郎・富司の子供だってチヤホヤされるのは最初だけ。ちゃんと劇団に入って勉強したほうが良い』と言いました」
 当初は鳴かず飛ばずだった寺島が一躍脚光をあびたのは、三十歳のとき。ヌードで過激なセックスシーンに挑戦した主演映画『赤目四十八瀧心中未遂』がきっかけだった。
 富司がこう続ける。
「私は心配して『裸になったらお嫁に行けないし、絶対やめたほうがいい』と必死で反対しました。その時、私は主人に『しのぶがヌードになると言っていますが、どうしますか』と尋ねた。でも、主人は『女優なんだからいいだろ』と一言。それを聞いて、私は『凄いな』と思った。主人の一言があったから私は許したんです。
 今思えば、あの作品を私が潰してしまっていたら、一生私は後悔していたなぁと思います。それ以後、私はしのぶの仕事には一切口出ししていません」
 寺島はこの映画で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。その後の活躍は周知の通りだ。だが、息子を梨園に入れるのであれば、女優のキャリアを諦める覚悟も必要だと両親は語る。
「初舞台となったら本当に母親が大変ですからね。もし子供がグズったら、母親じゃないとダメ。眞秀が初舞台を踏むのなら、しのぶはその月、絶対女優の仕事はできない」(菊五郎
 富司が割って入る。
「前の月からダメです。しのぶに『もしそうなったら、そういうこと(仕事ができない)なのよ』と言ったら、『それも覚悟の上だ』と言っていましたけど」

「結局は実力ですよ」

 富司自身、東映のスター女優だったが、七二年に菊五郎と結婚して以降は、女優業を引退。“音羽屋の女将さん”として日々邁進し、女優復帰を果たしたのは十七年後の八九年だった。
「純子さんは菊五郎さんを常に立て、周囲に気を配って止まない人。豪放磊落な菊五郎さんの尻拭いも厭わず、菊五郎さんはそんな彼女を信頼しきっている。
 でも、結婚後は相当の苦労をしたと聞いています。しのぶさんが産まれてから五年間は長男が産まれなかった。周囲から『今度は男の子ならよろしいのに』と言われて、不妊治療の末、菊之助を産んだ。『ようやく肩の荷が下りた』と言っていました」(音羽屋関係者)
 前出の喜熨斗氏が彼女を評していう。
「私は『梨園の妻になるには』と聞かれたら『純子さんを見習え』と言っています。もともと大女優だったのに結婚後はスパッと辞め、菊五郎さんの毎日の食事管理、ご贔屓筋への挨拶回りなどを立派にこなしている。覚悟を決めてからはドンと構えて動じない。しのぶさんの性格は、純子さん譲りなのでしょう」
 菊五郎は噛みしめるような口調でこう語る。
「僕たちの世界は、どこまで行っても商業演劇。お客さん、ご贔屓様の力って強いんですよ。しのぶが歌舞伎の世界にポンと飛び込んできて役者仲間に『お願いします』と言ったって、周囲が乗るとは限らない。これがとっても難しいことなの。私が生きているうちだったらポンと継がせられるけども、そんなことは許されない。うちには泰次郎、栄之助、栄三郎などの幼名があります。それを継がせて、その後は梅幸になる。その段階を踏んでいる途中でどうなるかはわからない。結局は実力ですよ。
 私が菊五郎を襲名する時はこんなことがありました。新橋に『金田中』という料亭がありまして、父・尾上梅幸中村歌右衛門中村勘三郎尾上松緑、それと会社(松竹)の人が二人。その時代の最高峰が勢揃いして、紋付袴を着た父の梅幸が『皆様、このたび会社から菊五郎という名前をうちの倅に継がせたいという話がございました。ご賛同いただけるでしょうか』と。それで拍手が起こり、次の間で待機していた私は『入りなさい』と言われた。私は黒紋付姿で『皆様、このたびこのようなお話をいただき、ありがとうございました』と。襲名はそれほど大事なものだった。名前っていうのは、先祖からお借りしているものだからね。自分のものであって、自分のものじゃない」
 前出の歌舞伎関係者が音羽屋の今後を占う。
菊之助さんは、しのぶさんの息子が歌舞伎役者になるなんて計算外だったはず。それをうまくまとめたのが富司さんでした。本当に眞秀くんが歌舞伎をやるとすれば、和史くんとはライバル関係になるでしょう。実際、昨年五月の歌舞伎座千秋楽では、和史くんより一足先に、眞秀くんの“初お目見得”が行われています。
 さらに言えば、もし和史くんに弟が産まれた場合、息子がいない吉右衛門さんの養子になる可能性もあります。そうでもしない限り、中村吉右衛門は途絶えてしまうわけですから」
 それに対し、菊五郎はこう否定する。
「(吉右衛門の屋号である)播磨屋を継ぐとか、まったく決めていません」

「倅は先輩のミニチュア版」

 富司もこう続ける。
「まず男の子が(もう一人)産まれたらの話。今はまったくお腹にも来ていないし。わからないねぇ」
 二人の“跡取り”に対しては、どのような英才教育を施しているのか。菊五郎が明かす。
「『寺島に頼まれた菊五郎が眞秀くんの稽古をつけている』なんて報道があるけど、それはありませんよ。眞秀も和史も、尾上菊之丞のところで踊りの稽古をやっています。足をどんどんやるとか、その程度。(眞秀の)初舞台は三年後くらいかな。ハーフの歌舞伎役者の誕生? 面白いじゃないの。よろしいじゃないの。
 和史なんて、まだ二歳でしょう。『お早うございます。和史ですぅ。よろしくお願いします』と言うだけ。まだオムツをしているんですから。お父さん(菊之助)には『大きな声で!』とか言われているけどね」
 寺島と瓔子さんの確執を報じた前出の『女性セブン』を見せると、富司はこう反論した。
「こんなこと全然ありませんよ。去年の暮、しのぶの誕生日には、瓔子ちゃんとカズ(菊之助)がマンションに行ってお祝いをした。この間だって瓔子ちゃんは、眞秀の三年保育の入園お祝いをしのぶに渡していました。しのぶのブログにも、『平和な寺嶋家の中を是非引っ掻き回さないで頂きたい』と書いてありました」
――しのぶさんの夫であるグナシア氏は何と?
「ローランは歌舞伎が好きで毎月来る。日本人より日本が好き。昨年、『め組の喧嘩』の千秋楽で眞秀を抱いたら、感激してボロボロ泣いてた(笑)」(菊五郎
――菊之助さんは近年ドラマなどに出ず、歌舞伎一本に精進していらっしゃる。
「ヤンチャする八方破れの人に華があったりするからね。役者というのは真面目にやっていても、お客さんから見たら面白くないかもしれない。これが難しいんだ。倅の舞台稽古を見に行くと、『もうちょっと破天荒にやれば良いのにな』と思う時もありますよ。倅は先輩の教えた通りにやって、ミニチュア版になってしまっている。もう四十ですからね、そろそろ菊之助のナントカというものを出していかないと」(同前)
――瓔子さんはアドバイスされる?
「聞いたことないですね。お父さんの播磨屋さんが教えてくださる(笑)」(同前)
 菊五郎は、最後にこう“見得”を切った。
「どうぞお書きください、だよ。それによって価値が変わったりということではないんだもん。歌舞伎の将来? 知ったこっちゃあない」
――取材から八日後の今月二日、「團菊祭五月大歌舞伎」の初日。約二千人の観客を前に“初お目見得”を果たした和史くんは、父の菊之助に抱かれ、恥ずかしそうに両手で顔を隠し、愛らしさを振りまいた。その両脇には、二人の祖父が控えていた。
菊五郎さんは『あと一年先でも良いだろう』と言ったそうですが、吉右衛門さんが舞台に立たせたくて仕方がなく『早くしろ』と義理の息子の菊之助さんをせっついた」(松竹関係者)
「私の孫であります和史の初お目見得をさせていただきましたが、ご覧の通り、まだまだ幼き者にござりまする」
 菊五郎が力の籠もった声で口上を述べると、割れんばかりの拍手がこだました。
 幼き者たちの芸の道は始まったばかりだ。

週刊文春」2016年5月19日号

友好交流に尽力 権力監視、他国へも 若宮さん死去、中韓関係者も惜しむ

 訪問先の北京で死去した朝日新聞主筆若宮啓文さん(68)がゲストとして出席予定だった「日中韓公共外交フォーラム」が29日、北京で開かれ、北東アジア3カ国の関係強化や人的交流に貢献してきた若宮さんの突然の死を惜しむ声が相次いだ。▼3面参照

 主催した中国公共外交協会会長の李肇星・元中国外相が冒頭ログイン前の続き、「若宮氏は一貫して中日の友好交流と中日韓の協力に尽力してきた」と、功績をたたえた。基調講演した二階俊博自民党総務会長は「中韓の皆様が若宮氏の生前の活躍ぶりを高く評価し、深い哀悼を示してくださったことを日本に伝えたい」と述べた。

 フォーラムは日中韓の対話促進を目指して開かれた。出席者で、若宮さんと交流の厚かった趙啓正・元中国国務院新聞弁公室主任(閣僚級)は朝日新聞に「中日関係についてインタビューを受けた時、両国関係への的確で深い理解と関係改善を望む強い気持ちが印象に残った」と振り返った。

 若宮さんと親交が深い鄭求宗・韓国東西大学客員教授(韓日文化交流会議委員長)は、北京入りする前にソウルで会っていた。若宮さんが「日本の政府や政治家だけを厳しく批判していたわけではない」として、韓国の朴裕河・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判を取り上げ、韓国に対して言論の自由に理解を求めたことを挙げた。

 (北京=林望、ソウル=牧野愛博)

2016年4月30日 朝日新聞朝刊

アジア共生、挑んだ「闘い」 若宮啓文・朝日新聞元主筆死去

 日中韓3カ国のシンポジウムに出席するため滞在中の北京で死去していたことが28日わかった若宮啓文(よしぶみ)・朝日新聞主筆(68)は、過去四半世紀、日本の言論を牽引(けんいん)してきた論客の一人だった。

 特に、小泉内閣から第1次安倍内閣の時期を含む5年7カ月の論説主幹時代(2002年9月~08年3月)は、本人が回想録「闘う社説」で振り返ったように、「闘い」の名にふさわしい論陣を張った。

 小泉首相靖国参拝には、歴史をめぐって東アジアに悪循環を助長しているとして批判。米主導のイラク戦争には正当性のない「予防戦争」だと異議を唱え、自衛隊派遣にも反対した。ナショナリズムが高まり、言論界が日米同盟強化に大きく振れていた。今に通じる時代状況だが、あのとき言論の多様性を重視し、東アジア共生の道を模索しようとした若宮さんの役割は大きかった。

 その「闘い」は決して硬直した言論戦ではない。

 立場の異なる論客と対話し、新たな視点で「解」を模索した。政治部長時代、改憲論の中曽根、護憲論の宮沢両元首相の対談を実現させ、保守内部で様々なニュアンスに富む憲法論があることを浮かび上がらせた。

 憲法論では対極にある渡辺恒雄・読売新聞主筆と、首相の靖国参拝反対で共同歩調をとったこともある。

 若宮さんは、憲法9条の堅持を唱えながらも、新たな法制で自衛隊を法的に位置づける必要性も認めた。安全保障における日米同盟の意義を評価する点では、自民党ハト派の論調に近かった。

 「やわらか頭でとんがろう」が口癖だった。思考は常に柔軟に、しかし、もの申すときは、ひるまずに正面から挑んだ。

 その果敢なスタイルが、論争や反発を生んだこともある。例えば、日韓ワールドカップ共催論を打ち出したとき、日韓が領土問題でぶつかる竹島について、「夢想」と断った上で韓国への譲渡という案を論じたとき、がそうだった。

 若宮さんは、ジャーナリストとして二つの優れた資質を持ってきた。ひとつは鋭敏な人権感覚だ。長野支局時代に被差別部落問題に出会った。結婚、就職など生活のあらゆる面に根を張る差別に苦しむ人々の姿は、20代の若宮さんの心を揺さぶった。地域面に9カ月間160回のルポを連載した。生涯を貫く原点だ。

 もうひとつは、テーマを掘り続ける根気だ。80年代初頭、軍事政権下のソウルに語学留学した。植民地支配に対する恨みや反日感情に戸惑いながらも、領土や歴史が絡み合うナショナリズムを超える道を考えた。なぜ日本の保守は、過去と向き合うことがむつかしいのか。関心は中国を含むアジアへと広がっていく。

 主筆引退後、さらにこのテーマに没頭する。再度の留学で韓国語を学び直し、保守のアジア観に関する著書を改訂した。だが東アジアの和解は一向に進まず、対立はやまない。若宮さんの「闘い」は続いていた。その途上の悲報だった。

 (編集委員・三浦俊章)

 

 ■親友として敬愛していた

 渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長・主筆の話 突然のことで驚いた。シンポジウム出席のために訪れた北京のホテルで亡くなったとは、言論人としての壮絶な戦死だ。

 シャープで、雄弁で、筆が立った。親友として敬愛していた。突然の死に、がっかりしている。

 我々はともに政治記者を経験し、主筆という同じポストにいた。彼は私より22歳若いが、年の差を感じたことはない。よく論争もしたが、それもいいことだと認めあっていた。

 安全保障では立場が違ったが、お互い本質はリベラリスト。論争では半分一致し、半分一致しないぐらいだった。私はA級戦犯をありがたくまつる靖国神社への首相参拝には反対だ。その点、彼と同じだった。

 もう少し長生きしてほしかった。というのも、直接聞きたかった話があるからだ。彼はロシアのプーチン首相との記者会見(2012年)で、北方領土問題で「引き分け」との発言を引き出した。そのいきさつを聞ければ、これから安倍晋三首相とプーチン大統領がどういう会話をすればいいのかという教訓にできた。日韓関係についても、もっと話を聞ければよかった。

 

 ■現実に根ざしたリベラル

 ジェラルド・カーティスコロンビア大名誉教授の話 あまりにも突然で信じられない。日韓、日中の関係改善のため、東京、ソウル、北京を走り回り、必死に努力していた。

 20年来の大切な友人だ。彼は筋が通っていた。考え方に一貫性があって、ぶれない。客観的にモノを見ていたから、意見が合わなくても話ができる。

 良いところは認め、悪いところは批判した。まじめな人だったと思う。

 米国からはわかりにくい日本の保守のアジア観についても、単純な右翼の見方と切り捨てず、その矛盾した、複雑な実像を正確にとらえようとしていた。

 現実に根ざしたリベラルだったのだろう。憲法改正には反対だったが、自衛隊の存在を決して否定しなかったし、国連の活動に参加するのは当然だと。ただ、それは憲法の枠内でできるという考えだった。

 

 ■日韓の懸け橋として活躍

 河野洋平・元衆院議長の話 自分の主張を誠実に伝え、はぐらかしたり、変に妥協したりしなかった。

 特に日韓関係についてはそうで、日韓の懸け橋として活躍された人が亡くなるのは両国のためにも本当に残念だ。中国からも非常に信頼されていた。

 私はサッカーの2002年日韓ワールドカップを決めるころに外相だったが、若宮さんから色々とヒントをもらった。最後まで(主催国を)争っていた中で、一緒に主催したらいいという話をした。若宮さんとは双方の父親の代から2代にわたる非常に古い付き合いで、昵懇(じっこん)の仲だったから。リベラルな立場を貫く姿勢に、いつも共感し、色々と啓発された。心の友を失った気持ちだ。信じられない。

 日本の政治状況がこれまでと違った方向に行きそうだと心配して、評論活動を進められていた。もっと活躍してもらわないといけない人だった。▼国際面=中韓からも哀悼

 

     ◇

 鄭求宗(チョングジョン)・韓国東西大学客員教授(韓日文化交流会議委員長)の話 若宮啓文氏の急逝は、韓国社会に大きな衝撃を与えた。日韓関係を大切にした日本の知識人の逝去は信じられないし、今も信じたくない。

 若宮氏はコラムや論評を通じ、いつも円満な日韓関係のために尽力してきた。2002年のサッカー・ワールドカップ日韓共催を提案した朝日新聞の社説は、その実現に大きく寄与した。05年3月のコラム「風考計」で独島(竹島)について「いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する」と書いたことも少なくないインパクトを与えた。

 若宮氏は、日本の政府や政治家だけを厳しく批判していたわけではない。韓国有力紙の東亜日報に連載したコラム「東京小考」では、韓国の朴裕河(パクユハ)・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判を取り上げ、(起訴を批判して)韓国に対して言論の自由と著者の立場に理解を求めた。

 私は若宮氏が1981年に語学研修でソウルに来て以来、兄弟のような友情で結ばれてきた。若宮氏は勇気と所信に徹した言論人として愛されただけでなく、日韓関係の長い歴史の中でいかに生きていくべきかを教えてくれた。

 若宮氏は韓国の文化をも愛し、歌手・趙容弼(チョヨンピル)氏の歌「恨(ハン)500年」を覚えて、しばしば愛唱した。正確な発音による熱唱は、韓国の友人を感動させた。

 今のような長寿の時代に若宮氏は早世したが、残した足跡は大きい。日韓の新しい未来は、彼が抱いた夢を見るように前に進んでいくと信じる。私たちは、そのために努力していくべきではないかと思う。

 若宮兄。安らかにおやすみなさい…。

2016年4月30日 朝日新聞朝刊

「ヒロシマ」を巡る日米の深い溝 オバマ「被爆地訪問」の高いハードル

  安倍晋三政権が強調する日米関係の深化というストーリーとは裏腹に、歴史観の溝の深さが浮き彫りになっている。日本で開かれる一連のG7(主要七カ国)会合の先陣となる、広島市でのG7外務大臣会合(四月十日、十一日)の準備作業のことである。

 夏の参院選後の内閣改造で交代すると見られる外務大臣岸田文雄にとって、地元・広島でのこの会合は格好の花道だ。戦後初めて、米国の現職国務長官が広島を訪れる機会を、「ポスト安倍」を視野に自らのリベラル路線と平和主義をアピールする場にしたいというのが、岸田の「思い」だ。

 米国の歴代政権は、広島、長崎への原爆投下について一切の謝罪を拒否し、これがなければ「日本全土の沖縄化」(原爆投下を指示した大統領ハリー・トルーマン)によって日米双方でおびただしい戦死者が出たとして、「正しい選択」だとする立場を崩していない。米政府の高官が広島訪問を避けてきたのは、「軍人や軍施設のみならず、多数の一般市民が犠牲になることを承知で行った無差別殺戮」と批判する内外の勢力を刺激したくなかったからだ。現国務長官ジョン・ケリーが広島を訪れるだけでも歴史的出来事だ。そこに、平和記念公園での原爆死没者慰霊碑への献花、被爆者との直接対話、バラク・オバマ大統領が目指す「核のない世界」に向けた決意の表明が加われば、安倍主導の外交の陰に隠れ、さしたる成果のなかった岸田にとって、レガシー(政治的遺産)になる。

外務省の見立ての甘さ

 このナイーブなシナリオについて、外務省には当初、楽観論もあった。まず、広島での会合開催に応じたこと自体、米政府の変化の表れだ。オバマ政権の核政策も、追い風と映る。それ以上に楽観論を裏打ちしたのは、二〇〇八年に広島で開かれたG8(主要八カ国)議長会議に参加した米連邦下院議長のナンシー・ペロシが、慰霊碑に献花した前例だ。

 下院議長は、大統領継承順位が副大統領に次ぐ二位で、四位の国務長官より「高位」だ。しかもペロシは、広島の被爆の惨状を伝える広島平和記念資料館も訪ね、被爆者である元館長の話を聞いてもいる。「格下」のケリーが同じことをするのに抵抗はないはずだ―そんな見立ての甘さは、ケリーの広島滞在中の日程調整に着手してすぐ、明らかになった。

 米側は献花を行うことにさえも抵抗し、献花の方向が固まっても、G7外務大臣が全員一緒に供えるのか、個別に供えるのかといった細かな所作に神経をとがらせ、平和記念資料館の視察中、どこでどんな映像をメディアに撮らせるかなど、一挙一動に詳細な注文をつけてきたという。被爆者との面会には強い難色を示しており、会合最終日に発表する共同声明をめぐっても、核廃絶への決意の中で広島や長崎の「悲劇」に言及することに慎重意見がある。「あらゆる行事が、いつキャンセルされてもおかしくない」という不安の声が、外務省から漏れてくる。

 ただ、米側の態度は事前に予測できたはずだ。安倍政権は中国や韓国との間だけでなく、米国、ことに民主党政権との間でも、歴史認識に落差があることを思い知らされてきたからだ。安倍の靖国神社参拝に対する米政府の「失望」の表明しかり、慰安婦問題での米議会の対日非難決議しかり。

 原爆観の違いは、戦後五十年の一九九五年に、米国の首都ワシントンの国立スミソニアン航空宇宙博物館で企画された、広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイとともに、被爆地の悲惨な状況を伝える資料を展示する「原爆展」が、連邦議会在郷軍人会の反対で中止に追い込まれた一件で鮮明になった。「原爆投下が戦争を終わらせ、被害を最小限にしたとの立場を毀損する展覧会は認めない」という米議会の多数派や在郷軍人会の声に、当時の大統領ビル・クリントンは「理解」を表明した。

 戦後七十年を過ぎた今も、米国の考え方は基本的に同じだ。近年、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下を「戦時法違反」「非人道的行為」と批判する声が日本で強まったことに対し、「自らの戦時中の非人道的な行為について謝罪や反省をせず、米国の非ばかり強調するのは、歴史修正主義者のすること」と不快感を口にする米政府関係者もいるという。

 米国政治に対する理解の欠如も、日米の溝を必要以上に深めた。

 ペロシは大統領継承順位こそ高くても、米政府を代表する立場にはなく、ケリーを同列に扱うのは不適切だという意識が日本側には乏しかった。ペロシの広島訪問が、当時の河野洋平衆議院議長の米ハワイ州真珠湾訪問(二〇〇八年十二月)と対だった経緯も、忘れられている。

 現在進行形の大統領選に与える影響もある。歴代政権の原爆観が変わったと受け止められれば、民主党大統領候補の切符をほぼ手中に収めたヒラリー・クリントンは、原爆展の中止に同意した夫の立場との間で板挟みになり、共和党大統領候補の指名争いをリードするドナルド・トランプに格好の攻撃材料を与えかねない。

 そもそもケリー自身が、日本の「歴史修正主義的な動き」を警戒してきた。二〇一三年十月の東京での外務・防衛閣僚会議(2プラス2)の際、当時の国防長官チャック・ヘーゲルとともに、米国の閣僚として初めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑で献花し、安倍の靖国神社参拝を牽制したことでも明らかだ。

形ばかりの「緊密な日米関係」

 もちろん、オバマ政権内にも異論はある。国務次官のローズ・ゴッテメラーは今年三月二十二日、オバマが五月の伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)の際に広島を訪れる可能性について「検討中」「大統領は広島訪問を光栄と考えている」などと語った。核不拡散の専門家で、原爆の評価をめぐる日米の機微が分からない人物でも、国務次官の発言だ。広島では「ケリーどころかオバマが来る」と期待値が上がり、内閣官房長官菅義偉も「被爆の実態に触れてもらうこと」に期待感を示すが、遅まきながらG7外務大臣会合の調整を通じて米側の本音に気付いた外務省では、「ケリーもオバマも、逆に動きにくくなった。余計な発言だ」と苛立ちの声が漏れる。

 G7外務大臣会合でのケリーの動きは、蓋を開けてみるまで分からないものの、準備段階での日米のすれ違いは、中韓が日本への恨みを忘れないように、米国にも「原爆でしか阻止できなかった好戦的で残虐な民族」という日本観が根強く残っていることを示唆している。「緊密な日米関係」という美辞麗句で封印された不信と敵意が、「ヒロシマ」という呪文で解き放たれる恐れがあることに、日本の歴史の「美化」に忙しい安倍も、その追従しかできない岸田も、あまりにも無頓着だ。(敬称略)

選択 2016年4月号

「長期衰退企業」キヤノンの実像 東芝子会社「高値摑み」の深いワケ

 キヤノンは複写機、カメラなどの強い商品、抜群の財務基盤、グローバルに高い知名度を持つ優良企業だ。御手洗冨士夫CEOは経団連会長も務め、今や財界でも重きをなす名門でもある。ただ、よくみれば二十一世紀に入って新たに育った商品はなく、複写機、プリンター、デジカメなど成熟した商品への依存が目立ち、製造業としての「老い」は歴然としている。そのなかで、医療機器メーカー、東芝メディカルシステムズの買収には〝回春〟への期待がかかるが、あまりの高値摑みでむしろ足がふらつく不安が浮上している。

 キヤノンには「高収益企業」のイメージが強いが内実は驚くべき不安要素がある。事業部門は、複写機やレーザープリンターなどの「オフィス」、カメラやインクジェットプリンターの「イメージングシステム」、半導体製造装置などの「産業機器その他」の三部門だが、その売り上げ構成は過去十年ほとんど変わっていない。

 二〇〇六年と一五年の部門別売り上げを比較すると、〇六年に五四%を占めていたオフィス部門は一五年にも五六%と横ばい、イメージングシステムも〇六年の三五%が一五年に三三%とほとんど変化がなく、当然、残る産業機器も比率に変化はない。

 しかも三部門とも一五年の売上高は〇六年を下回っているという共通点もある。結果的にキヤノン全体の売り上げも〇六年の四兆一千五百六十七億円から一五年には三兆八千億円と、十年で八・六%の減少となっている。まごうかたなき「長期衰退企業」なのである。

成長分野を持たない企業

 活力のある製造業では、イノベーションや市場ニーズの変化に対応して、新商品が次々と生み出され、売上高に占める各事業分野の比率は変化していく。自動車であればハイブリッド車電気自動車の商品化で、ガソリン車の比重が下がっていくといった現象だ。精密機器でも当然のごとくイノベーションは起きているはずだが、キヤノンには新たな商品群は見当たらず、分野別の売り上げ比率は固定されている。つまり成長分野を持たない企業なのである。

 一九七〇年に米ゼロックスの独占を破る独自方式の複写機を発売するまでキヤノンはカメラメーカーだったが、複写機によってメーカーとしての内容を大きく転換し、さらに八〇年代にインクジェット方式のプリンターを開発、オフィス機器の総合メーカーに飛躍した。二十世紀のキヤノンイノベーションを先導する躍動感のある企業だったのだ。

 三月十七日、キヤノン東芝の医療機器子会社、東芝メディカルの買収を発表した。富士フイルムホールディングスコニカミノルタに競り勝っての買収だったが、金額は六千六百五十五億円。当初、業界で言われた三千億~四千億円という企業価値を大きく上回る価格となった。さらに一六年三月期決算に子会社売却の特別益を組み込みたい東芝首脳の意を汲み、各国の競争法規制当局の審査期間をバイパスするために、特別目的会社(SPC)を間に挟むという奇策を取り、取得代金を即日、東芝に振り込んだ。

「御手洗さんは何が何でも欲しかったんだ。執念だよ」とキヤノン関係者は語る。デジタル医療機器という成長分野に参入し、キヤノンの新しい柱にしたい野心は、伸びの止まった成熟商品しか持たない長期衰退企業ならではである。問題は買収金額の妥当性、キヤノン自身の戦略との整合性、シナジー効果だろう。

 東芝メディカルはコンピュータ断層撮影装置(CT)、磁気共鳴画像診断装置(MRI)、超音波診断装置などの画像診断装置の大手。CTは世界で二〇%台のシェアを握り二番手、国内では五〇%のシェアを持ちトップだ。赤字部門が並んだ東芝では収益力でぬきんでた子会社だった。

 キヤノンは医療機器部門を育てようと力を入れてきたが、眼底カメラが目立つ程度で、伸び悩んでいる。東芝メディカル買収は願ってもないチャンスだった。画像診断装置は光学系やデジタル処理の技術で世界のトップを走るキヤノンにしてみれば近い分野であり、シナジーを働かせやすい。

 高齢化の進む先進国はもちろん、医療水準の向上が課題となっている中国、インドなどの大人口国に大きな需要が眠っている。キヤノンとしては他社に渡すわけにはいかなかったのだろう。

最も必要なのは御手洗氏の引退

M&Aの成功確率は三〇%」と言われるが、失敗するM&Aに共通するのは買収金額の上振れだ。東芝メディカルも六千六百五十五億円にせり上げられたことで、同社の直近の営業利益の約三十七倍の値付けとなった。一般に妥当とされる二十倍の二倍近い水準。

 のれん代(買収金額から純資産を除いた金額)の詳細は明らかになっていないが、仮に四千億円とすれば、日本の会計基準では年間二百億円もののれん代償却が二十年間必要になる。米国の会計基準を採用しているキヤノンはのれん代償却こそ当面は必要ないが、東芝メディカルの企業価値がシェアダウンや訴訟などで毀損すれば、一気に償却を迫られる。

 キヤノン当期純利益は今も二千二百二億円(一五年十二月期)にのぼるが、最盛期の〇七年十二月期の四千八百八十三億円からは半減以上落ちている。さらに七千億円近く持っていた現預金は計算上、今回の買収で空っぽに。強固な財務基盤ももはや過去のものだ。

 東芝メディカルのライバルは米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスといったキヤノンをはるかに上回る巨大企業であり、いずれも医療機器分野を最重点にしている。キヤノン資金と技術、ブランドを投入しても研究開発競争、グローバル市場でのマーケティングで勝ち抜けるかきわどい勝負だ。

 研究開発に力を入れ、特許戦略でも名をはせたキヤノンだが、次世代ディスプレイとして巨額資金をつぎ込んだ表面伝導型電子放出素子ディスプレイ(SED)の失敗など最近では挫折の連続だ。自社技術で成長できなくなったためにM&Aに賭けるとすれば、研究開発型企業の末路といってもいい。キヤノン社内から聞こえてくるのは、経営層の保守化、挑戦心の希薄化だ。

 優秀な研究開発人材を投資効果の測りやすい組み立てロボットなど工場自動化などに集中させていることが次世代分野を開拓できない大きな要因となっている。巨人ゼロックスに挑み、新しい複写機を開発したチャレンジャー精神を取り戻せなければ、東芝メディカルの買収も花開かないだろう。「挑戦するキヤノン」に最も必要なのは八十歳でなおトップに君臨する御手洗氏の引退であるのは明らかだ。

選択 2016年4月号

《土着権力の研究》【第60回】島根県 第二十五代 田部長右衛門 名跡継いだ二十一世紀の「若様」

 日本一の山林王―。林業が衰退した現在でもなお、この称号を冠するにふさわしいのが、奥出雲の田部家だ。古くは江戸時代にたたら製鉄を営み、比喩ではなく一帯の山林を保有し地元に君臨し続けてきた名家である。

 政財界に圧倒的な影響力を持ち、地元メディアをも支配下に収める。そうした意味で、田部家は典型的な土着権力者といえる。一方で、各地のこうした権力者が地元の利権を差配し、我田引水を繰り返すのと比較すると同家は少し趣が異なる。出雲地方で地元民から畏れをもって敬われつつ、静かに権勢を保ち続けているのだ。その田部家も二十一世紀に入り、否応なく時代の波に揉まれている。

 田部家の当主は代々「長右衛門」を名乗ることで知られている。昨年十一月、現在の当主である真孝氏が、二十五代長右衛門を襲名した。先代が一九九九年に死去して以降、十六年もの間空席だった名跡を三十六歳の当代がようやく継いだのだ。

「島根の天皇家」のようなもの

 先代が亡くなった当時、真孝氏は弱冠二十歳、まだ中央大学法学部の学生だった。その後、二〇〇二年にフジテレビに入社し、東京勤務を皮切りにパリ、ニューヨーク、ロンドンの支局を渡り歩いて八年間の修業を積んだ。

 一〇年四月、株式会社田部の代表取締役社長として故郷に戻った。その際に妻を連れて帰り、同月十八日には松江市内のホテルで披露宴が催された。出席者は三百人程度と、世間が想像したよりも小規模だったが、居並んだ顔ぶれは錚々たるもの。フジの日枝久会長や小渕優子少子化対策担当大臣(当時)のほか、地元の国会議員市町村長が軒並み集結し、田部家の威光が衰えていないことを証明した。披露宴では、田部家伝統といわれる餅つきが披露され、真孝氏が「この場に父がいないことが残念」と挨拶すると、目を潤ませる出席者も多くいたという。

 現在、長右衛門氏は前述した株式会社田部の社長のほか、田部家の資産管理団体の一つである田部美術館の代表理事や、山陰合同銀行取締役など、約三十の肩書を持つ。一〇年四月の帰郷と同時に、田部美術館がフジテレビと並ぶ大株主である山陰中央テレビに入社、一四年六月に常務取締役にも就いた。地元事情通が語る。

「時期を見て(山陰中央テレビの)社長となるのは既定路線です」

 社内では「若」の愛称で呼ばれ、将来の社長就任は自然なこととして受け入れられている。前述した田部美術館は同放送局の大株主でありながら、株主総会で意見を述べないことが定款で決まっている。それでもなお、社長就任を疑うものはいない。

「田部家は島根の天皇家のようなもの」という声をよく聞く。泥臭くない現在の長右衛門氏はその象徴のようなものなのだろう。

 しかしかつての田部家、特に戦前に衆議院議員、戦後には島根県知事を三期務めた二十三代目は積極的にその権力を行使したことで知られる。最も有名なのは、竹下登元首相との関係だ。「ゼニはすべて俺が出す」と竹下氏の学費の支援から、議員当選、佐藤栄作元首相の派閥入りまですべてをバックアップした。また、竹下氏の秘書を務めた青木幹雄参議院議員も、二十三代目の秘書を務め知事公舎で寝食を共にしたことが、現在の地位を築く礎となった。

 現在の当主は政治にそこまでの影響力を行使するつもりはない。しかし、圧倒的存在である田部家の威光を利用する人間はいる。その筆頭は青木幹雄氏だろう。同氏は一〇年の参院選で、息子の一彦氏に地盤を譲った。当時地元では「竹下家ならともかく、竹下の秘書上がりの青木家が世襲するのはけしからん」という反対論が根強くあった。竹下氏の地盤は、弟の亘氏が継承したが、元首相がこれを自ら指示することは最後までなかったといわれる。

行き詰まるメディア事業

 青木氏は当時、先手を打って地元県議や出雲市議にこう告げた。

「田部の若が戻ってくるから、田部の家に戻さないといけないわね」

 一〇年に帰郷する真孝氏に大政奉還をするという発言だ。しかしこれは、真孝氏に政治家への野心がないことを見越した青木氏の高等戦術だった。特に、青木氏の引退を見据えて準備を進めるライバルを、田部家の名前を出すことで抑え込むことに主眼があったようだ。地元県政関係者が語る。

「青木氏は真孝氏が事業家志向であることを知った上で情報操作を行ったが、仮病引退説が流れた」

 その後、青木氏はギリギリまで自身の引退について言質を取らせずに、突如として体調不良を理由に、有無を言わせず一彦氏の代役出馬を決めさせたのだ。

 田部家が影響力を及ぼす山陰中央テレビ山陰中央新報という地元二大メディアもまた、かつての同家の意向を汲むように、淡々と自民党べったりの報道を続ける。両メディアで、農協や畜産業、建設業界といった自民党支持団体への批判報道は出ない。いまだに自民党は、遺物と化した、山陰新幹線や瀬戸内海へとつながる伯備線のフリーゲージ化を声高に叫んでいるのに、である。

 前述した一〇年の参院選に、山陰中央テレビの看板アナウンサーが民主党から出馬した際には、社を挙げて阻止に動いたことは記憶に新しい。説得が不可能とみると、同局幹部が青木氏の下を訪れ、「先生、一生懸命応援しますから」と詫びを入れたのだ。今夏の参院選では、一彦氏が改選を迎える。鳥取との合区となった初めての選挙だ。野党統一候補は鳥取出身の福島浩彦氏が出馬を表明している。ここでも社を挙げて、自民党を支援するものとみられている。

 しかし、足元では山陰中央テレビの経営状態は好調とは言えない。地方局経営力の目安と言われる、全放送時間に占める自社制作番組の比率は七・八%(一四年四月)に低迷し、系列のフジ、関西テレビの番組を電波に乗せるだけの放送局にほとんど成り下がっている。ここにきてフジの経営状態が思わしくないため、番組をネット放送することで入る広告収入も同時に減少している。田部家の威光に頼る、惰性の経営は曲がり角を迎えつつある。新聞市場全体が縮小を続ける中、地元シェア七割を誇る山陰中央新報にも同様のことが言える。

 当代の長右衛門氏は、そんな状況を知ってか知らずかソフトな地元振興に力を入れる。山林事業や食品関連事業を行う株式会社田部は、出雲大社前や地元雲南市の道の駅に地元食材を使った土産物店を出店し話題を呼んだ。最近は長らく途絶えていたたたら製鉄を観光資源として復活させる試みにも取り組んでいる。

 今後も田部家の影響力がおいそれと減退することはないだろう。また、政治家が虎の威を借るように利用するだろうが、名実ともに代替わりした田部家は確実に変容しつつある。

選択 2016年4月号

 

ベッキーから本誌への手紙〈110日間の愛憎劇に終止符〉 着信拒否に戸惑う川谷、そして妻は…

正月明けの本誌スクープ、ゲス&ベッキーの不倫騒動が百日余りの時を経て決着を迎えようとしている。本誌に届いたのは現在休業中のベッキーからの手紙。そこには謝罪会見の真相から川谷との本当の関係、現在の心境に至るまで彼女の本音が切々と綴られていた――。

 ベッキー(32)からの手紙が届いたのは四月二十二日だ。郵送ではなく、彼女の所属事務所である「サンミュージックプロダクション」の代表取締役社長・相澤正久氏によって本誌デスクへ直接手渡された。
 淡い黄色の封筒の裏には差出人として〈サンミュージックプロダクション ベッキー〉とある。封を開けると、中には和紙の便箋五枚にわたって綴られた直筆の手紙があった。ハーフタレントのイメージとは程遠い、丁寧に清書された楷書の文字からは、この約四カ月にわたり秘めてきた心情を初めて打ち明ける覚悟と、一連のスキャンダルを報じた当事者である週刊文春に対する緊張感がひしひしと伝わってくる。
 紅白出場バンド「ゲスの極み乙女。」のボーカル・川谷絵音(えのん・27)との一連の不倫騒動を受けて、ベッキーはいまだ全ての芸能活動を休止中である。そんな中で、本誌はこのひと月余り、ベッキー本人へのインタビューを事務所を通じて繰り返し申し込んでいた。結局、彼女がインタビューに応じることはなかったが、現在の心境を手紙にしたためたのだ。下に掲載したのは、その全文である。

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本誌に宛てられたベッキーの手紙の全文

 この手紙で最初に驚かされたのは、ベッキーが会見での発言を過ちだとし、率直に川谷との関係を認め、謝罪していることだ。
〈記者会見についてですが、私は気持ちの整理もつかないまま会見の場に立ちました。離婚が成立するまでは、友達のままでいようという約束がありましたので“友人関係である”という言葉を選んでしまいました。しかし私の行動を考えると恋愛関係だったと言うべきでした。質疑応答がなかったことも含め、皆様に納得していただけなかったのも当然のことと思います。当時の私は好きという気持ちが大きく、周りもみえず、本当に愚かでした。会見で文春さんの報道を否定するような言動をとってしまい申し訳ありません〉
 明暗を分けた一月六日の緊急謝罪会見から百十日余り。本誌第一弾の発売前日にベッキーは会見でこう釈明したのだった。
「記事にありましたように、二人でお食事に行かせていただいたこともありました。お正月に長崎のご実家にお邪魔したことも事実です。ただ、お付き合いということはなく、“友人関係であることは間違いありません”」
 会見直後、川谷も足並みを揃えるように釈明のファクスを報道陣に送信し、ベッキーについては「親しい友人」と表現した。

ベッキーは反対だった会見

「当日、文春の早刷りを読んだ事務所幹部が急遽会見開催を決めました。彼女は会見を行うことに反対だったようですが、CMスポンサーが絡むことでもあり、決定に従うほかなかったのです」(民放関係者)
 だが、本誌では二人の親密さが見てとれるLINEのやり取りや、ホテル密会の様子を写真とともに詳述していた。にもかかわらず、「友人関係」としたベッキーの主張はあまりに苦しい言い逃れだった。質疑応答を一切受け付けない会見の対応も不審の念を抱かれる結果となった。
 本誌は会見から二週間後の第三弾で、会見前日にベッキーが川谷に対し、〈友達で押し通す予定!笑〉〈ありがとう文春!〉〈センテンス スプリング!〉などとLINEを送ったことを報じた。これらのフレーズは、その後、テレビで何度も繰り返し放送されることになる。それでもベッキーが頑なに「友人関係」を主張しているというまことしやかな報道もあった。ベッキーが休業に入った後のことだった。
ベッキーがテレビ局のプロデューサーに書いた“詫び状”の中で『川谷とは不倫をしていない』『本当に友達です』といまだに抗弁しているというのです。実際にはそんな書き方はしていない。休業に入ってからは憶測が蔓延しました。
 実家で引き籠もるように過ごす中で、ベッキーはいてもたってもいられず、番組関係者や友人宛てに百通にも及ぶ手紙を書いた。それは事実です。親友のお笑い芸人・近藤春菜(33)や宮川大輔(43)は手紙を受け取ったことを認めています。ただとにかく迷惑をかけたことを謝るだけの手紙でした」(同前)

未練を隠さなかった川谷

 そして、次に注目すべきはこの一文だろう。
〈川谷さんへの気持ちはもうありません〉
 川谷とは互いの事務所によって引き離された恰好だが、水面下では通じ合っていて、川谷の離婚を待って改めて交際すると見る向きも少なくなかった。
「謝罪会見の後も、ベッキーは九日の生放送『にじいろジーン』(関西テレビ)の司会を笑顔で務めるなど、川谷との再会の日まで、とにかく仕事に専念しようとしているようでした」(スポーツ紙記者)
 なにより川谷はベッキーへの未練を隠さなかった。川谷は本誌の取材にこう答えている。
――今、ベッキーさんに言いたいことや聞きたいことはないんですか?
「まあ、今は全く連絡も取っていないので、どういう気持ちでいるのかな、とか。やっぱり休業したというニュースを、僕は人づてに聞いたので、そういう点では心配ですね。その気持ちが一番デカいですかね」
――最後に連絡を取られたのはいつですか?
「ちょっとあんまり覚えていないんですけど、一月中旬ぐらいですかね」
――ベッキーさんに対しては、今でも大事な方だというお気持ちはあるんですか。
「うーん、相手の方に対しては、僕から勝手に発言するわけにはいかないかなっていう感じですね」
――このまま二人は別れてしまうんでしょうか。
「僕からは何とも言えないですね。僕も先のことは分からないというか。僕はミュージシャンで、芸能界のこととか、全然分からなかったんですけど、やっぱり一筋縄ではいかない話なんだなっていう風にすごく強く思いましたね」
 大人の事情で離れ離れになったが、まだ“絆”は切れていない。そんな含みのある言葉にも読める。
 だが、実際にはベッキーは本誌第二弾「ゲス乙女の妻 涙の独占告白」を読んだ直後の一月中旬から、川谷の電話を“着信拒否”にして連絡を断っていたのだ。
 川谷の将来を憂うある音楽関係者が話す。
「いまだに気持ちが通じ合っていると思っていた川谷君は、なぜ連絡が取れなくなったのか理解できず、激しくうろたえていました。ナルシシストの彼は、ベッキーさんの事務所が圧力をかけて無理矢理、“着拒”にさせたのではないかと勘繰って、何とか連絡を取ろうと試みていました。でも、まったく上手くいかない。彼はおそらく現在でも悲劇的な恋愛物語を思い描いているはずです」
 本誌への手紙にもあるが、ベッキーが妻へ謝罪する場として、川谷も交えた三者で会うというプランもあった。だが、ベッキーはあくまで一対一での謝罪にこだわった。川顔をあわせたくないという一心からだったという。

女はあっという間に醒めた

〈もう川谷さんとは関係がないので〉
 この一節にもその強い思いが見てとれる。
 一方でベッキーの本心を知る由もない川谷は、彼女への“発信”を続けた。
 ゲス乙女が初めて武道館のステージに立った三月三十日。会場周辺にはネタを追うワイドショー・クルーの姿もあったが、普段は曲と曲の間に長いMCを挟む川谷が、この日は結局、アンコール前まで一切MCをしない異例のセットを組んだ。MCでの発言がワイドショーで揚げ足を取られないようにするための苦肉の策だったようだが、ポエトリーリーディングのような「無垢」という曲は、まるでベッキーへのメッセージのように響いた。
〈上手くいかないことばかりだけど、何とかやってます そう書いた 返事は来なかった いつのまにか時間は過ぎて約束を守れなくなった もう忘れてしまっただろう もう忘れてしまっただろう そう思って自分に言い聞かせた 泣けてくるんだ 泣けてくるんだ 元気にやってますか? 僕は君のいない世界ではなんとかやってます 君にとっては僕がいなくなったんだけど 勝手な言い方してごめん〉
 歌詞が何に着想を得ているのかは不明だ。ただ、本誌既報の通り、謝罪会見直前にも二人は変わらぬ思いを誓い合う次のようなLINEを交わしており、互いの喪失感はかなり大きかったはずだ(一月二十八日号)。
ベッキー〈楽しい春と夏になるよ〉
川谷〈遠恋だと思って過ごす〉
ベッキー〈えんれん〉
 だが女はあっという間に醒めた。手紙にはこうある。
〈文春さんで奥様が話された記事を読み、そこで初めて奥様のお気持ちを知り、自分の気持ちの整理がつきました。私がとった軽率な行動は謝って済まされることではありませんが、せめて奥様の前で頭を下げてお詫びをさせていただければと思っております〉
 本誌第二弾では、川谷の妻・A子さんが、ベッキーが知るはずもない、夫婦の特別な思い出を語っている(一月二十一日号)。無名のバンドを支え、少しずつ売れるようになった夫が、
〈守りたいと思うことが増えた。ずっと一緒にいようね。子供がほしい(笑)〉
 とA子さんにサプライズでプロポーズしたのは二〇一四年のクリスマスイブだった。結婚は一五年の夏。だが、そのわずか半年後、一六年の正月に夫の“禁断愛”が発覚。ベッキーが謝罪会見を開いたのは、A子さんの誕生日当日だった。
 当時、A子さんは本誌の取材にこう答えている。
「彼女はスポンサーやスタッフ、ファンに向かって謝っていましたが、私への謝罪がなかったことには正直、驚きました」
 ベッキーは会見で“妻へのお詫び”はしなかった。まず、「テレビ、CM、ラジオの関係者の皆様、そしてファンの皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛けしました」と述べた後で、「川谷さんのご家族の皆様」という表現で謝罪を付け加えた。だが、やはり会見前にA子さんに直接詫びるべきだったという声は多い。

川谷は逆ギレ離婚を迫った

 しかも、長崎の実家前で本誌が直撃した際、川谷は結婚の事実を頑なに否定し、A子さんの名前を出すと、「名前は知っています。友達です」と説明したのだ。
 二人を知る別の音楽関係者が真相を明かす。
「奥さんを友人と言ったのはあり得ない対応で、彼女を深く傷つけました。なぜ彼がそんな見え透いた嘘をついたのか。それは彼は既婚者であるという事実が関係者にも伏せられていたことが大きかった。バンドも人気商売ですから仕方ない部分もあり、ベッキーも当初は知らなかったわけです(*編集部註 本誌への手紙でも〈出会って好きになった後に奥様がいる事を知りました〉と記述)。その“設定”を利用して、『友人関係』という前提のまま世間にバレずに離婚まで漕ぎ着けたいと目論んでいたのでしょう。
 そもそも川谷はベッキーに対して『結婚は事実上破綻している。あとは離婚届に判を押すだけ』と説明していたようです。夏に入籍したばかりの新婚だとも知らせていなかった。ベッキーはその“卒論”提出の約束を信じていたのです」
 二人はLINEで離婚届を“卒論”と称し、こんなやり取りを交わしていた。
川谷〈時間かかってしまうけどちゃんと卒論書くから待ってて欲しいな。こんな感じで待たせるのは本当に心苦しいけど、待っててほしい〉
ベッキー〈大丈夫だよ! 待ってる だからけんちゃんも待ってあげて。(*川谷の本名は「川谷健太」)大丈夫だよ! 卒論提出できたら、けんちゃんにいっぱいワガママ聞いてもらおうっとー!笑〉
 ちょうど本誌第二弾が発売される前日、一月十三日にゲス乙女はニューアルバム「両成敗」をリリースする。皮肉にもこの騒動で名前が全国区となり、同アルバムはオリコン初登場一位、春のコンサートツアーのチケットも多くの公演で即日ソールドアウトとなった。
 実は、この頃から川谷は開き直ったかのようにA子さんとの離婚を急ぐようになる。川谷は本誌の取材に、離婚協議について、「そうですね。二人でちゃんと話し合いを今、しています。はい」と答えていた。だが、それは協議というよりは、“逆ギレ”に近いものだった。
「文春の直撃取材を受けて、はじめは川谷はとにかく『申し訳ない』と謝っていたのですが、奥さんのほうはダメージが大きくて、それどころじゃない。ろくに食べ物も受け付けず横になってばかりいて、離婚問題に向き合えるような状態ではありませんでした。彼は最初は奥さんの体調を気遣いつつ、離婚話を切り出すなど下手に出ていたのですが、その後、離婚を迫る中でかなり酷いことを言ったようなんです。彼女にとっては、ショックが大きすぎてもう心身ともに限界。一時は結婚前の仕事を再開しようとも考えていたようですが、とてもそんな段階ではないとか」(同前)
 ベッキーが何よりも願っているのが、そのA子さんへの謝罪だ。手紙では真っ先に、そこに触れている。
〈何よりもまず、川谷さんの奥様へ謝罪したいというのが今の一番の気持ちです。とにかくお会いしてお詫びの気持ちをお伝えしたいです。私の事務所を通じて謝罪の場を設けてもらえるようお願いしていますがまだ叶っておりません。先方からは川谷さんを交えてならというお話もありましたが、もう川谷さんとは関係がないので奥様と一対一でお会いして謝罪をさせていただきたいと考えていました〉
 ベッキーがA子さんへの謝罪の前に会見を開いてしまったのがボタンの掛け違いの始まりで、謝罪はいまだに為されていないのだ。

妻は謝罪の手紙を拒否

ベッキーが一月三十日に休業に入ったころには、川谷の事務所を通じて、奥さんに謝罪の機会をもらいたい旨が伝えられています。ただ奥さんはとてもベッキーと向き合える状態ではない、と拒否してきた。
 その後も紆余曲折があり、川谷も交えた三者で話し合う案も出て、奥さんもその気になったそうなのですが、ベッキー側がそれを断った。奥さん側はまさか謝罪に条件を付けられると思っていなかったので、余計ショックを受けてしまった。しかしそれは余人を交えず一対一で真摯に謝罪したいというベッキーサイドのニュアンスが正確に伝わらなかったのが原因のようです。ベッキーが謝罪の手紙を書いたこともありましたが、事務所間で生じた感情的なもつれもあり、最後は奥さんに受け取りを拒否されたのです」(同前)
 今回のベッキーの手紙をA子さんはどう読むのか。こじれにこじれた愛憎劇は終止符に向かって動き出そうとしている。

週刊文春」2016年5月5日/12日 ゴールデンウィーク特大号